2012年2月16日木曜日

送られたい気持ち


“祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれに心を留めるようになるからだ。”〜聖書より〜

分かる分かる。そうやって送られたいものだなあ。

○叔母の葬儀
元旦を迎えて二日後、私の叔母の訃報が入った。母の姉で私にとっても信頼できる大事な叔母であった。やさしく、いつも明るくユーモアに富み、自分のことより相手のことのことを思う人だった。そんな良い人もやっぱり「死」がやってくるとあらためて思った。
その叔母からどんな影響をうけたか、どんな安らぎをもらい励まされ信頼していたか、それを告別式に出席している人や、今まで関わってきた人たちともっと分かち合いたいと感じた。
葬儀は、お経とお焼香が始まり、葬儀社の担当者が故人の人柄や歩みを語ルト言う演出があった。しかし、そのような語りに気持ちが削ぐわされるものを感じた。
「どう送るかって、もっと感じようよ!!」そんな叫びを思ったが。こうやって終わっていってしまい、きっとセレモニーが一連終わったあと、「これでおしまい?」という想いが、言葉に出さないがそれぞれの脳裏をかすめるのではないかと想像する。
「やさしかった叔母さん。あっけなさすぎないだろうか」

○知人の伴侶の葬儀
2月2日に知人の奥様が亡くなられたと連絡が入った。お通夜に出席。大きな花の祭壇の中央に遺影が飾られていた。お焼香のために長い列。焼香台の向こうにご家族・親族が控え、喪主はこちらを向いて挨拶の姿勢。
おそらく若すぎる死を迎えられたことと思う。帰り道、知り合いである喪主の方のことを思った。
「奥さんを送ることになった今どんな想いだろうか。」何を思うことだろうか。
そして、人の死の儚さを思う。きっとやさしく家族を支え、良い家庭を築かれ、その生涯を過ごされたことだろう。
しかし、「死」はどう生きたかに関係なく、またいつ来るかも分からないまま、必ず誰にもやって来る。
亡くなられた方のことをもう一度思い巡らすこと、それって大切にしたいと思った。
そして、自分の時、自分の伴侶の時のことを思いめぐらした。
良く分かる。そうやって送られたいものだなあ。

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