2012年2月14日火曜日

「怪我」は考えるスタートでした。


面白いことに、何かに関心をもったり、関係ができたりすると、その関連が芋づる式にあちこちで気がつくような経験はありませんか。

前職時代、女性デザイナーと一緒にある企画をすることがありました。
葬儀情報を丸ごとFAXで情報提供する企画で、彼女にレイアウトとイラストをお願いしました。
今ならインターネットですが・・・当時はまだありませんでした。その後、この情報が、ネットに丸ごと掲載されましたが・・・。

ある日、彼女が「最近、お葬式が多いですね。町で良く葬儀の看板を見かけます」と、話しかけてきました。

ほら来たぞ。
「そうなんです。それまで、葬儀関係の仕事に関わったことがない人は、暫くすると必ずみなさんそう言われますよ。」
「へぇ、そういうもんなんですか」

若ければ葬儀に参列する機会もないし、核家族化なので、家族の葬儀にも直面することも確率的に低いし、学校でも「死」について教えていないなど「死」や「葬儀」を日頃見聞きすることはごく稀なことです。

家で葬儀の話などしようものなら「縁起でもないね」とか「寂しい話をしないで」と会話にもならず、いつしか意識のはるか彼方へ行ってしまうのです。

しかし、「死」は現実のこと。
この世にいのちを与えられれば、必ずいつかは「死」がある。
それは特別なことでなく、どこにでもある普通のことです。

あのクルマが欲しいと思い始めると、眼の中にそのクルマがドンドン入って来ます。仕事でも、あのことを何とかしようと思い始めると、それに関連することが眼にも耳にもドンドン飛び込んできます。

「死」だけでなく、「病気」「障害」「介護」「失業」・・・世の中のいろんな暗くてあまり考えたくない問題は、誰しも避けて通りたいことなので、意識して考えることができません。やはり、当事者になってはじめてそのことを考え始めるのでしょう。

先日、渋谷でつまずいて両手を負傷。
両方の手のひらと指先の怪我なので、翌朝、顔を洗いたくても濡らすこともできませんので、最後の手段として家内にお願いしてタオルで顔を拭いてもらいました。
その時の会話。
「介護の練習だね〜」と・・・複雑な気分でした。
僅か2、3日のことでしたから良かったのですが、介護が毎日ずっと続くとなることを想像すると、つきっきりになり時間が拘束され続けること、やりたいことがやれなくなること、仕事ができなくなることでの経済的な負担、精神的なストレス・・・どれも現実の問題として浮かびあがってくる。
今回の怪我は、「葬送」を自分のこととして考えるスタートでした。








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