私たちの生活を豊かにしてくれるツールとして様々なモノは今日まで進化し続け、
便利な暮らしや効率の良い仕事ができるようになっています。
しかし、何故か、どこか満足感が得られないと感じている人が
増えているような気がします。
例えば電気製品は、私たちの生活には欠く事の出来ないモノです。
昔の事を言えば笑われますが、それまでタライと洗濯板で時間をかけて洗濯。
その後、電気洗濯機が登場。2層式になり、全自動になり・・・
ドンドン製品は進化。時間と労力を掛けなくても、スイッチさえ入れれば
誰でも洗濯が出来るようになりました。
それで私たちの暮らしは豊かになったのでしょうか?
また、かつては紙に筆記具で手紙を書き、郵便ポストに投函して、
郵便配達の人が相手先まで手紙が届くというシステムでした。
届くまでの時間と返信の間が楽しみでもありました。
このごろは、もっぱらEメール。要件を打ってシューっと、
地球上のどこまでも瞬時に届けることができます。
便利なツールで、私たちはコミュニケーションを上達させたのでしょうか。
また、便利にはなって自分の仕事は効率よくスピードアップされたが、
返信も早く以前より忙しくなり、時間が足りなくなって残業ばかり・・・と
よく聞きます。
要件を瞬時に伝達でき便利になった反面、内容や相手の状況を思い浮かべたり、
気持を考えたりしながら文章を綴るということは少なくなっていませんか?
効率的で便利な暮らしばかり求め、それに慣れてしまいますと、いつしか思考も
行動もいつの間にか深く考えるという事が少なくなって、体裁だけ整えるだけに
なってしまうのが私たち人間です。
「葬儀」の場面ではいかがでしょう。
葬儀には何回も会葬しているけれど、ほとんどのコトは葬儀社の人が
仕切っているので、自分は手伝うこともなく「お客さん」として参列するだけ。
頭ではこれまでの会葬の経験やメディアでの葬儀情報番組でイメージできるの
だけれども・・・実際には、どこから、いつどのような行動を起こしたらよいか
経験もなく全く分からない状態です。
考えておかなくても、いざと言う時には葬儀社のホールを使い、
葬儀社が提示した何でも含まれているプランを使い、
言われるがままに過ごせば、効率は良いし手間はかからないし、
あっという間にお葬式は終わってしまうでしょう。
でも本当に「そんな風に済ませてしまってよいのでしょうか?」
親しくしていた方々と、
心ゆくまで故人にまつわる物語を紡ぎ直す時間はありましたか?
その人の生きた意義をみつめ、
心からのお別れをする時間はもてたのでしょうか?
もしかしたら私たちは、便利さを追い求めるあまり、
大切なことを見失ってしまっていたのかもしれません...。
お葬式は見送る人と、見送られる人の関係性(コミュニケーション)の中で
営まれるもの。互いの想いが行き来する時間を、
効率や、便利さで済ませることは出来ないのです。
そしてその時間は、なんの準備もせずに創り上げることはできません。
「これから楽交」は「生き方」が「逝き方」であると考えます。
いつか誰にでも「その日」は訪れます。
見送る側、見送られる側、双方を想い合い、
「これから」いかに生きるのか、「これから楽交」で一緒に考えてみませんか?
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